明治17年(1884年)に、民家で開校された結東校。108年の歴史があるこの学校は、極僻地であったために明治25年(1892年)から以後43年ものあいだ義務教育免除地に指定(※1)されていました。
その後、昭和7年(1932年)に現在かたくりの宿が建つ場所に校舎が建てられ、義務教育免除地指定解除や分校化などを経て昭和61年(1986年)に休校。平成4年に閉校となりました。
翌平成5年(1993年)、ふるさと資源活用事業によって、学校から「かたくりの宿」に姿を変え、現在に至ります。平成13年(2001年)には「21世紀 明日をめざしての集い」(※2)を開催するなど、結東校は今もひとが集う場所としてそこに在り続けています。
ここ結東集落を含め13の集落が、明治25年、極僻地であるがために義務教育免除地に指定されました。以後、昭和11年に解除されるまでの43年間(1集落のみ昭和6年解除獲得)、教育の恩恵を受けられませんでした。義務教育免除地に指定されるということは、集落の人々にとって、死にもひとしい宣告であり、現代の飢饉ともいわれました。
その43年間は、義務教育完全実施を求め続けながら、私設小学校設置で寺子屋式の教育が続けられました。地域の有識者を先生として立て、学校教育関係の費用(設備・消耗品)は集落が負担し、教師の給与や食事や衣服も賄っていました。しかし、「読み・書き・そろばん」といった実用教育だけで、人間形成の教育ではありませんでした。また、集落の負担は大きく、卒業証書がなかったため、就職や中学入学に不利な点もあったようです。集落では村の会議や村の議員を個別訪問して教育の必要性を説明し、署名や嘆願書を提出し、県の視察も仰ぎました。そして、昭和11年、ようやく義務教育免除の地解除を獲得しました。
昭和42年、義務教育免除地指定解除30周年記念の式典が行われ、校庭に「明日をめざして」の像が建設されました。埋め込まれている石は子供たちが中津川から拾い集めたものです。当時の先生方や父兄は「たとえ僻地で恵まれない環境であっても、子供たちに夢を持ってもらいたい。明るく素直に育ってほしい。」と考え、教育に力を注いできました。その成果もあり、子供たちは、山の小さな分校の子でも、「こんなことができるんだ」、「自分たちにもできるんだ」と自信を持つことが出来たようです。そして、「明日をめざして限りなき前進を誓おう」という発想のもと、結東分校のシンボルとして、また結東の地を巣立つ人みんなの心の故郷として「明日をめざして」の像が建設されました。その像の裏には「西暦2001年秋分の日に集うことを誓う」と刻まれ、21世紀突入の年の秋分の日、偉大にならなくても、とたとえ出世しなくても、各人が精いっぱい前進した姿で元気に再会しようという願いが込められました。そして、平成13年(2001年)の秋分の日の9月23日、34年前の願いどおり、約100名の卒業生、学校関係者がかつての学校に集まりました。
教育の尊さを身にしみて味わってきた集落。それだけに教育を受けたい、教育を受けさせたいという思いは誰よりも強く、子供にかける期待も大きかったようです。
新しい教育を受けた子供たちは集落には残りません。それぞれの夢を追って都会へ出てゆきますが、家族はそれも教育を受けた成果だと思い、黙って見守ってきました。
集落の人々の心のよりどころとしてまた、コミュニティーの場として長年親しまれてきた学校ですが、時代の流れとともに過疎化が進み、昭和61年に休校、平成4年に閉校となってしまいました。明治23年の創立以来、痛みに耐えながら教育の礎を築きあげてきたことを想うと集落の人々にとっては断腸の思いだったようです。
その校舎の再利用が強く望まれ、平成5年に「かたくりの宿」として生まれ変わりました。秋山郷の玄関口として大地に根をはり、雪深い自然と独特の文化に触れられる体験交流施設として再出発することになりました。集落の人々はこのかつての校舎に多くの人が来てくれることを願っています。
明治17年(1884年) | 民家にて結東校を開設する |
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明治23年(1890年) | 校舎を新築(矢平、登止地区) |
明治25年(1892年) | 極僻地のため、義務教育免除地に指定される(以後43年間) |
昭和7年(1932年) | 現在地に校舎新築 |
昭和11年(1935年) | 秋山郷への道路が開通。地域の猛然運動の結果、義務教育免除地域指定解除 |
昭和12年(1936年) | 秋成村立秋成尋常高等小学校第二分校が発足 |
昭和30年(1955年) | 町村合併により津南町立秋成小学校結東分校、津南町立中津中学校結東分校となる |
昭和31年(1951年) | 2階建て2教室増築 |
昭和32年(1952年) | 体育館、便所新築 |
昭和33年(1953年) | 旧体育館を改築し2教室と教務室へグラウンド拡張工事 |
昭和35年(1960年) | 給食室、かまど改良工事 |
昭和38年(1963年) | 風呂場設置 |
昭和40年(1965年) | ピアノ開き |
昭和41年(1966年) | 中津中学校結東分校閉校(本校へ統合)。鼓笛隊デビュー |
昭和42年(1967年) | 義務教育免除地指定解除30周年記念式典。「明日をめざして」像除幕式。完全給食実施 |
昭和48年(1973年) | 秋成小学校より分離独立 津南町立中津峡小学校となる |
昭和61年(1986年) | 休校 |
平成4年(1992年) | 閉校 |
平成5年(1993年) | ふるさと資源活用事業で「かたくりの宿」として生まれ変わる |
平成13年(2001年) | 「21世紀 明日をめざしての集い」開催 |
秋山郷(あきやまごう)は、新潟県中魚沼郡津南町と長野県下水内郡栄村とにまたがる中津川沿いの地域。東を苗場山、西を鳥甲山に挟まれた山間地域で、日本の秘境100選の1つです。新潟県側に8つ、長野県側に5つの集落があります。
平家一門である平勝秀が落ち延びたとされている平家の落人伝説が残り、昭和30代半ばまで焼畑を行っていたことでも知られています。
また秋田からやってきた旅マタギの子孫が今でも毎年熊猟を行っています。交通・通信が不便で、豪雪地帯でもあったことから、独特の生活習慣が残されていました。 江戸時代には、塩沢出身の文人鈴木牧之の著書『秋山記行』や『北越雪譜』、また昭和になってからは、地理学者の市川健夫によってこれらの自然や歴史、風俗習慣が紹介されています。
交通の便が悪く、近年まで冬季には大雪により隔絶されるケースが多く、何度も飢饉や飢餓が発生し、時に村が全滅することも。しかし現在では、津南町大割野から切明まで国道405号線が通り、また、長野県側からは奥志賀林道から雑魚川林道に分岐し、切明まで繋がる林道が整備されています。飢饉、飢餓の危険はなくなりましたが、秋山郷は依然秘境の面影を止めています。
また、湯量豊富な温泉郷としても有名で、各集落にはそれぞれ独自の源泉があり、温泉施設や温泉宿が存在します。
かたくりの宿は新潟秋山郷の一集落、『結東集落』にあります。結東集落は現在戸数25軒人口62名(内子供は3名)【2015年11月付】の小さな集落です。8つある新潟秋山郷の集落の中では中心的な集落で昔は旅の行商人などが休憩の為に立ち寄っていく場所でもありました。集落内には観光スポットとして有名な『見倉橋』や『石垣田』がありシーズンになると観光客で賑わいます。
この地域は縄文時代から人が住み続けているといわれ、集落内から縄文時代の石器が出てくる事もあります。山と川に囲まれた集落で昔より自然と共に暮らし、厳しい自然の中で生きていく為に集落で互いに協力して生きてきました。結東集落の魅力は「大自然」となんといっても「人」。集落内で住民に会われれば是非声をかけてみてください。暖かい笑顔が返ってくるはずです。